テトラポットの政

ひとりごと、ことばの新陳代謝

それはそれであり

スマホが壊れて、

もろもろのはけ口になっていたインスタグラムが

使えなくなった。

おちこみとか、もやもやとか、

誰か友人に直接ぶつけてもどうにもならないことを、

でも自分の中だけでは消化できないことの

バランスを取っていた外と内の間

 

離れてる友人たちに、

生きたり死んだりしながらなんとかやってるんだな、

ってぽちぽち日常を伝えていたツール

帰国ごとに、すべてをまとめて話すのは大変だし、

こんなこともあったよ、認識しておいてね、って

それなりに触れないでおいてほしいこともあるよ、って

 

ちょっとした会話の手抜きとも言えそうなこと。

 

とはいえ、

写真とともに記録がてらつぶやける、

ちょうどいいツールだったのに。

 

悲しいなあ。

でも

 

それはそれでいいか。

まあ、使えなくてもいいか。

死ぬわけじゃないし。

 

そのおかげでさっき、友人に長文のメッセージをおくった。

手紙のような日記のようなひとりごとのようなつらつら書き。

 

あと、ラインもものすごく便利だけれど、

そればかりだと、長い文章を打たなくなる。

長い文章読みにくいしね。

 

それはそれでありだけど。

 

スマホが無いから道の地図見るようになるし

迷うけど、不便だけど、

地図を読むのが得意になる。

 

ないならないで、

あるならあるで、

それなりに上手くやればいいよね

なるべくして、なるから

カタツムリの膜

自分の感覚、というものがここに鮮やかにある。

日本語でならその感動を、不満を口に出来るものが、

英語だとそうはいかない。

いくら言葉が口をついても、それはそのまま心の声じゃない

だから、心にたまっていく

悪い意味でストレスのときもあるはずだけど、

それも含めて、いろんな感覚が鮮やかに自分の中にある

 

とてもそれが気持ちがよいとき、

誰かに、誰かと話すのを少しためらう

論理的なものの議論ならしたくても、

感覚を理解してくれる人ができる恐さもある

理解してほしいけれど、してほしくない

してくれても、ある距離でいたい

 

自分の感覚が自分のものであるという実感を、

カタツムリが自分の乾燥を防ぐ薄い膜のように、

少し覆ったまま、澄ましていたい

 

種蒔き

愛の種だと思って蒔いたものが、

ひょろひょろで上手く花をつけなかった

でも、しばらくほうっておいたら、

とても立派な葉っぱをつけていた

 

気づいたらそれは尊敬の種で、

期待していたその花ではなかったけれど、

刺激とモチベーションを与えてくれる

とっても大切なものだった

 

 

めも

美味しい食べ物は、貪欲さを消す

満足感はからだにしあわせを呼んで、

他のことで満足しようとする勢いをゆるめる

 

人種とか、文化とか、民族性とかよりも

その人の気遣いが、本当にその人を作っているきがする。

すごく気が利くとか、社会性があるとか、特別な何かではなく、

何で人が傷つくか、嫌な想いをするかを考えられる人。

 

そして、

気にする気にしないの境界が似ている人は

言葉関係なく通じ合える

コミュニケーション能力の話ではなく、

その人の、センス、感覚が合う合うわないは

大事で、

大事だと頭で思う以前に、

人と人を惹き付け合い、引き離す

ハイハイメソッド

赤ちゃんのようにまなぶ。

ゼロから、出直す。

 

自分を制限してるのも、

自分を守ろうとしているのも、

自分。

 

さらけだしてみる。

分からなかったら質問をして、

自分の考えたことを話して、

間違っていても、

ばかみたいでも、

笑われても、恥をかいても、

気にするのは自分だけ。

 

 

そして、

自分の気持ちと体には正直でいる。

 

素直な気持ちでやりたいことを見つけ、

おなかが痛くなったら向き合って、

ストレスなのか、食べ物なのか、

 

無理はしない。